karajanjanの日記

カラヤンについて語りましょう

ソリストと指揮者との意見の相違

皆さんはこの演奏をご存知でしょうか?

              

ブラームスのピアノ協奏曲第1番です。この曲自体に問題はないんです。

今回は「ソリストと指揮者との意見の相違」と題して綴ろうと思うのですが、よく考えれば、指揮者とソリストという異なる2人のアーティストの解釈が全く同じということはあり得ないでしょう。稀に2人の意見がほぼ一致して、統一感のある息ぴったりの協奏曲が繰り広げられることもありますが、個性がぶつかり合って面白い演奏になっているケースは多々あると思います。後者の方が多いのではないでしょうか。

自分も協奏曲の指揮を何度か務めたことがありますが、だいたいは力関係でテンポやニュアンスが決まっていきます。もちろんお互いに「ここは○○したい」とか「ここは△△であるべきだ」といった意見交換はリハーサル前の2人での打ち合わせやリハーサル中に行われるのですが、指揮者のキャリアや実力が上であれば、その指揮者の意向に従って音楽は処理されていきます。逆にソリストの方がキャリアや音楽性が勝っているケースであれば、ソリストが全てをリードし始めます(最初は指揮者に寄り添うとか、話し合って決めると言っていても)。しかし、指揮者とソリストがかみ合うと、お互い、いい意味で妥協し合って、そこに2人の価値観がうまくブレンドされた音楽が生まれていくのだと思います。

では、指揮者とソリストの意見が対立して、折り合いがつかない時はどうなるか。1つは、仕事と割り切って、どちらかが自分の解釈を完全に抑えて1つの作品をまとめてしまう。以前、記事に書きましたが、カラヤンが若かりしツィンマーマンとシューマンのピアノ協奏曲をレコーディング。その際、ツィンマーマンと3楽章のテンポが合わず、ツィンマーマンが譲らない。仕方なくカラヤンがあきらめてテンポを緩めてレコーディング終了。という感じでしょうか。言われなければこんなエピソードがあったかどうかわからず、「いい録音ですね」といった感想まで出てしまうくらいです。

そして、もう1つのパターンは、演奏会やレコーディングがキャンセルとなり、共演自体がNGとなるケースです。言わば喧嘩別れですよね(実はこのケース、まあまああるそうです)。まあ、お互いの主張が交わらないなら、こうなるのが実はお互いにとって幸せなのかもしれませんね。この例としては、カラヤンとボゴレリッチの事件があります。これも若かりしボゴレリッチとカラヤンウィーン・フィルチャイコフスキーのピアノ協奏曲で共演が予定されていました。しかし、リハーサルからテンポで噛み合わない。ボゴレリッチはもっと速く!。カラヤンはもっとゆったり。リハーサル終了後、「翌日の演奏会プログラムはボゴレリッチの指の怪我のため、曲目変更」となってしまいました。2人の共演は幻となってしまったのです。ボゴレリッチはアバドロンドン交響楽団とこの曲を録音しました。確かにボゴレリッチは速い。カラヤンのこの曲のテンポはかなり遅めです。ワイセンベルクキーシンでなければ、あのテンポでは弾けないかもしれませんね。

普通はこのどちらかに落ち着くのですが、もうひとつのパターンが冒頭に紹介しましたあのCDの演奏となるわけです。1962年4月、グレン・グールドバーンスタインの世紀の共演なのですが、グールドはかつてない遅いテンポで演奏することをバーンスタインに提案したそうです。バーンスタインも「グールドの提案を受け入れる」と対応はしていたものの、オーケストラとのリハーサル前に「信じられないほど遅いテンポで演奏してみる。このテンポをまじめに受け取る必要がある」とコメントしたそうです。一見、グールドに寄り添ったいいスピーチのように聴こえるかもしれませんが、このコメント、実は酷評を浴びることになります。なぜ、酷評を浴びるのか。それは、「このテンポは私が望んでいるものではない、あくまでピアニストが希望しているからやってみるのです」ということなのです。指揮者が自分の意志でこのテンポをチャレンジするという表明ではなく、グールでの責任において、このテンポにすると、指揮者の解釈上の責任を投げ出したととられたのです。このコメントがオーケストラだけに向けられたのであれば、問題はなかったかもしれません。しかし、バーンスタインはこの演奏会の前に「テンポが遅い正統的ではない演奏を試みる。実は私はグールドの解釈に賛成しているわけではない」という内容の異例のスピーチを観客に対して行ったのです。これは完全に、「演奏がうまくいかなかった場合は、僕の責任ではない」と主張したも同じだと私も思います。いずれにしても、お互いが納得しない状況、仕事だからと割り切ってグールドの主張を受け入れたわけでもなく、演奏会をやめるわけでもなく、納得しないままの状況で演奏を行ってしまうというレアケースがこのCDの演奏というわけです。

確かにテンポは遅い。1楽章は25分48秒、2楽章は13分45秒、3楽章は13分30秒

曲自体、とても重々しく、スケールの大きな協奏曲なので、このテンポでも、それほど気にはならないかもしれません。しかし、当時はこのテンポは規格外の遅さだったようです。では、実際の聴衆の反応はというと、3楽章の終わりを待たずに、最後の和音の途中で聴衆が拍手を始めてしまうほど熱狂していたようです。

若かりしバーンスタインは比較的速めのテンポでスタイリッシュな演奏が多いので、このテンポは考えていなかったことでしょう。

ところが、バーンスタインはこの21年後の1983年11月、ツィンマーマンとこの協奏曲を録音しました。

               

この演奏のテンポは、1楽章24分35秒、2楽章16分28秒、3楽章13分00秒。なんと、演奏時間自体は新録音の方が遅いのです!晩年のバーンスタインのテンポはかなり遅くなっていましたね。それが吉と出る曲と凶と出る曲がありましたが、このピアノ協奏曲に関しては吉と出ているように思います。オーケストラもウィーン・フィルとなり、ブラームスの重厚さがより深く表現されているように思います。私はこの演奏、好きですよ。特に2楽章がたっぷりと演奏され、3分近く遅くなっています。それでもあまり粘っこくは聴こえないと思います。1楽章・3楽章は遅い演奏の部類に入りますが、よく聴き比べてみると、グールドよりは速めのテンポで進行しています。トータルとしては演奏時間が伸びていますが、引き締めるべき1・3楽章のテンポは旧録音よりも前に進んでいる感じです。ツィンマーマン盤の後にグールド盤を聴くと、やはりちょっと遅いかな?と感じます。個人的には新録音の方が好きですね。

この曲の一般的なテンポは、1楽章22分~23分、2楽章13分~14分、3楽章12分、といったところでしょうか。このブレンデルアバドベルリン・フィルの演奏などはオーソドックスかなと思います。

              

というわけで、今回はソリストと指揮者の意見の相違に関して触れてみました。バーンスタインはこのグールドとの一件で、指揮者の責任というものをしっかりと考えたのかもしれません。80年代のウィーン・フィルとのブラームスツィクルスの際、交響曲第3番をかなり遅く演奏する際に、「自分のアイデアとして極めて遅いテンポで実験を試みる」といった声明を出していました。今回は、「指揮者の解釈」というものがはっきりするコメントですよね。まあ、協奏曲ではないので、テンポの決定に関しては、指揮者の責任以外ありえないですもんね。

このピアノ協奏曲第1番は、私の好きなカラヤンは公式な記録上、1度も演奏していません。録音も残してくれませんでした。2番の協奏曲は演奏も録音も残しているのですが‥‥。個人的に、この1番のスケールからすると、カラヤンにとってもあっている気がするので、実演で取り上げて欲しかったです。もしかすると、この曲で、自分の理想とするソリストが見つからなかったのかもしれませんね。

今回はここまで。今晩は音楽番組が目白押し。ドラマ「さよならマエストロ」、クラシック音楽館ではマーラー交響曲第8番「一千人の交響曲」、NHKBSでは小澤征爾ベルリン・フィルの来日公演(カラヤンの代役)が一挙に放送です。先程もNHKで小澤さんの特集を放送していました。今日は音楽DAYですね♫