karajanjanの日記

カラヤンについて語りましょう

カラヤンのマーラー(Part2)

前回に続き、今回はカラヤンベルリン・フィルによるマーラー交響曲第9番の第3・4楽章の感想を綴っていきたいと思います。

第3楽章の出だしは激しい音楽です。ベルリン・フィルの音も綺麗なだけでなく、だいぶ活気を帯びてきたような印象を受けます。この楽章はライブ感がよく表れているなぁと思いました。なぜかというと、管楽器が興奮しているのか、前へ前へと急ごうとして若干弦楽器を追い越し気味になっているからです。もう少し弦と管のスピード感が崩れれば演奏が崩壊するのでしょうが、その一歩手前でとどまって音楽が前進していきます。ある意味マーラーの激しい楽章には起こっていい現象だと思います。(カラヤンベルリン・フィルの崩壊しそうでしないスリリングな演奏を味わいたい人は、1988年の最後の来日公演の演奏会のチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」のCDをお聴きください。第1楽章は思わず「危ない!」と声を出しそうになるところがありますが、本当にギリギリの線で持ちこたえています。かえって興奮するいい演奏だと思う人もいるのではないでしょうか?この件はまた後日♫)

中間部からは静寂の後、弱音でトランペットのソロが始まります。このソロは本当に難しいソロです。小さく吹かなければいけない上にハイトーンへの跳躍があります。そのハイトーンは決して強いアタックがついてはいけない。そんな難所なのですが(自分には難しくて吹けません‥‥)さすがベルリン・フィルのトランペット!いとも簡単に綺麗なフレージングで吹いています。この時期の演奏だと、グロートさんかクレッツアーさんのどちらかが吹いているんだと思います。(お二方ともお話をさせて頂きましたが、とっても親切な方でした。)同じフレーズを違う楽器が続けていきますが、その他の楽器もとにかく綺麗にこのハイトーンへの跳躍を奏でていきます。ここはカラヤンレガートが見事に曲想とマッチしているのではないでしょうか。

そして再び出だしの激しいメロディーへと音楽が展開し3楽章を締めます。もっと最後に向けてアチェルランドであおってもいいかな?と思いますが、カラヤンらしいと言いますか、冷静なアチェルランドで最後の音に向かっています。(このあたりはバーンスタインアチェルランドの勢いの方が個人的には好きですね。激しすぎるかもしれませんが)

いよいよ最終4楽章。あの深い音からのオクターブ。ここはマーラーの9番なのか、ブルックナーの9番なのか音楽的にうまく表現できるか分かれるところですよね。どちらも同じように演奏してしまう指揮者もいますが、譜割りも全く違うので、必然的に違う世界が繰り広げられるはず。ブルックナーの9番の3楽章は拍の頭から音があります。一方、マーラーの9番の4楽章は4分休符があってから音楽がスタートします。この4分休符があることで、本当は1拍目から出たかったのに、我慢しなくては!という音楽的なパワーが込められることになる。しかし、この演奏、そこまで深刻な感じでは始まっていないのです。音楽が軽いわけではありません。深いと思うのですが、重たくない気がします。よく、第9番は「死」と結び付けられて、指揮者が「死」とどのように向き立ったのかが表現されると言われます。確かに、ベートーヴェンが9曲の交響曲を作って亡くなったことから、9つの交響曲を作り上げる際には作曲家が「死」を意識していたと言われています。マーラーもその例にもれず、第8番「千人の交響曲」を作曲した後は、9番ではなく、交響曲大地の歌」を作ってその呪縛から逃れようとしたのは有名な話ですよね。このように「死」を深刻に捉えて挑む演奏者が多いのかもしれませんが、カラヤンはこの「死」をそこまで深刻に表現していない気がします。(本当は人一倍「死」を意識し、恐れていたのかもしれませんが、それを人に見せない、感じさせないところがカラヤンなのかもしれません)違う見方をすれば「死」を超越し、来るべきものとして抗うことはせず、素直に受け流して演奏しているのかもしれません。他の指揮者がこの出だしで重たく、ねっとりと演奏するのに対し、カラヤンはそこまで重たくはない。でも意味ありげで、ここから研ぎ澄まされた音楽が展開されていくのです。

冒頭から一通り盛り上がりが終わり、再び深い音楽が始まります。この中間部あたりから、カラヤンよりもベルリン・フィルの団員の方がテンションを抑えられなくなっているような印象を受けます。弦は少しえぐるような音の立ち上がりで演奏を始めます。管楽器も普段なら音を拍の頭からきちっと出すのですが、音を出した後、膨らますように音の幅が広がっていきます。特にホルンにその傾向が強く表れている気がします。この膨らますような吹き方は普段、よくないとされています。音はきちんと頭からまっすぐ出す。クレッシェンドと膨らませるのがどう違うのかは難しいのですが、この演奏では明らかに後から音が伸びてきます。でもそれが「心から出ている声」のように感じるのは私だけでしょうか?人間、何か思い詰めていて、それをいざ言葉に出す時、いきなりはっきりとした声でストレートに言葉を発するでしょうか。むしろ、最初は小さく、そしてそのあとは堰を切ったかのように言葉が紡がれていくのではないかと私は思うのです。そんな言葉の発し方とこの演奏は同じなのではないかと。音は膨らんでいますが、それが心にズンときます。「死」を何ともない、当たり前に受け入れていると思いきや、実はカラヤンは心の中で叫びたいことがあったことを団員は感じていたのかもしれませんね。

そして、最後は極上の最弱音。大きめのボリュームにしておいても聴き取れないくらいの最弱音。もう動けません。一音たりとも聴き逃すまいと神経を集中しないと聴き取れない極上の音楽です。あれだけ心の叫びを吐露しながら、最後は何事もなかったかのように静かに、そして綺麗に音楽は終わっていきます。

 

長くなりましたが、4楽章は「死」に拘り過ぎなくてもいいのではないかと思いますが、非常に心打たれる演奏だと思います。これがオーソドックスなマーラーだとは思いませんが、素晴らしい演奏だと思っています。

 

個人的にこの9番は、小澤征爾さんとボストン交響楽団の演奏も素晴らしいと思います。是非、聴いてみて下さい。

               

小澤さんはマーラーを得意としていますね。私が小澤さんの第9番を聴いて感動したのは、ボストン交響楽団を退任するラストのコンサート。これはテレビで放映されました。この時の第3楽章、それと4楽章の出だし。そして最後の音。心に染みました。これはラストコンサートという感傷的な部分が働いてしまいますが、このCDはそんな感傷的な部分抜きに素晴らしいと思いますよ。

これ以外はやはりバーンスタインベルリン・フィルとの演奏がスリリングでいいですね。

次回、9番以外の演奏で論じていきたいと思います。