karajanjanの日記

カラヤンについて語りましょう

カラヤンは意外と大振り?

 7月23日(日)にNHKの「クラシック音楽館」”いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台”シリーズで、カラヤンベルリン・フィルによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番・チャイコフスキー交響曲第5番・ブラームス交響曲第3番が放映されました。なんでこの曲順なのかは??ですが(個人的には静かに終わるブラームスの3番よりも華やかに終わるチャイコフスキーの5番の方を最後にした方が、ゴージャスなコンサートを聴きに行った気分なれるのになぁと思いました)、どれもデジタルリマスター版としての放映だったので、かなり映像的にクリアな状態で観ることができました。どの演奏も録画やDVDでは持っているものですが、やはり映像がきれいなのはいいですね。

 さて、演奏そのものはどれも素晴らしいので今更コメントする必要はないのですが、1970年代のカラヤンの指揮ぶりは私にとってはかなり大振りな気がします。このブログの最初の方で私とカラヤンとの出会いを綴っていますが、もともとカラヤンからクラシックに入ったのではない私は、カラヤンについてはレコードと様々な書物から好きになっていきました。書物の中でのカラヤンの指揮ぶりは「コンパクト」「振りが小さい」「汗をかかないで指揮をする」「指先だけで指揮をする」といった感じで表現されています。そして、私がテレビでカラヤンの指揮を見たのは、カラヤンが亡くなった直後の特集で、80年代に入ってから晩年にかけてのものが多かったので、その時のカラヤンは体が不自由になっており、指揮ぶりは確かに必要最低限の省エネの振り方でした。(それでも、1988年のジルヴェスター・コンサートでキーシンとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲の最後は、気力を振り絞って大きく指揮をしたのでかなりびっくりしました。)

 カラヤンの映像を頻繁に見るようになったのはこの後からです。まだLD(レーザーディスク)が出だした頃だったので、VHSのビデオで見たり、BS放送での放映をビデオに録画して見ていました。アルバイトでお金を稼げるようになって、LDを購入しました。(もちろんCDはこの頃から購入していました)先ほども書きましたが、70年代の映像(ベートーヴェンブラームス交響曲全集、チャイコフスキーの4,5,6番の交響曲集など)を観た時の第1印象が、「思っているより手を広げてはっきりと拍をとって、大きく指揮をするんだなぁ」というものでした。70年代の指揮が全て大振りかというと実はそうでもなかったりするんです。カラヤンが亡くなった時の特集でドヴォルザーク交響曲第8番の3楽章、楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」のリハーサル場面(現在はNHKクラシカル生誕100周年記念BOXに特典としてDVDに収められています。このシリーズです。↓)

                     

があったのですが、その際はコンパクトな指揮ぶりで、特に「愛の死」の盛り上がりで、拍をとらず、手を広げてベルリン・フィルをコントロールするその指揮ぶりに憧れを抱いたのを今でも覚えています。これが究極の指揮なんだ!と今でも思っているくらいです。カラヤンと言えば70年代もこのような指揮ぶりなんだろうと思い込んでいたので、その他の映像作品での大振りが私にとっては意外でした。きちんと振っているし、もしかするとオケにとって邪魔なくらい大きく表現しているんです。若手指揮者に「オケの邪魔をするな!」と助言している割にはかなり大胆に指揮している印象を受けました。

 もしかすると、映像作品でライヴではない作品、作り込んだ映像作品だと、意識的に視聴者を意識したパフォーマンスに徹して、そのような指揮ぶりにしている可能性は否定できませんね。カメラの向き、奏者の楽器の角度もかなり調整をさせたとのことなので、どのような指揮ぶりだと効果的かを考えての指揮だったのかもしれません。そう考えると、決して振りが小さいわけではないのですが、ライブを収めたベートーヴェン交響曲第9番のコンサートの様子、ザルツブルク復活祭の音楽祭でのブラームスのドイツ・レクィエムなどは私が思うに、自然な指揮ぶりのように感じられます。先程述べた、愛の死やドヴォルザークのリハーサル場面も来日公演の際のスタジオで作り込むような映像でなく、舞台上をそのまま収録したものなので、ごくごく自然な指揮ぶりだったのかもしれませんね。

 そう考えると、カラヤンの本領はやはりライヴで発揮されているといっても過言ではないのかもしれませんね。