karajanjanの日記

カラヤンについて語りましょう

中立って大事ですよね♫

ここのところバーンスタインをよく聴いたり、観たりしていてふと感じたことがあります。それはオーケストラの編成です。

マーラーブルックナーといった大編成の曲ではそれほど問題にはならない話なのですが、ベートーヴェンブラームスを演奏する際にどのくらいの編成で演奏しているのかでよくカラヤンは批判の的になりました。演奏を聴いているだけでは判別は難しい(音がゴージャスだからという理由で通常よりも大きな編成で演奏していると声高に主張する人もいますが)と思いますが、カラヤンベートーヴェンブラームスの演奏では、映像で見る限り、管楽器に関しては倍管編成で演奏しています。もともと作曲家がフルート1st,2nd、クラリネット1st,2nd‥‥といったように演奏の編成を決めているのですが、だいたいカラヤンの映像では2倍の奏者で演奏しています。したがって、ほとんどの管楽器で4人演奏しているわけです。アマチュアのオーケストラや実力のある奏者が少ないようなオーケストラだと、同一のパートを2人で吹く場所を分けて、曲の途中でばてて吹けなくならないようにしたり、大音量の際に2人で一緒に吹くといったことはよくある話なのですが、カラヤンの場合、天下のベルリン・フィルウィーン・フィルと演奏するわけですから、本来は作曲家の指定した編成で十分なわけです。ところが、カラヤンなりに編成を大きくする意図があって弦楽器も含めて大編成にしている。この大編成にすることが作曲家の意図に反していると批判されてきたわけです。(最晩年のワーグナーの「タンホイザー序曲」ではトロンボーンを6本で吹かせてました!トロンボーンは滅多に倍管にはせず、通常、他が倍管でも3人で吹くんですけどね。)

一方、カラヤンと人気を二分してきたバーンスタインはというと、あまりというかほとんど編成で批判されたという記憶がありません。(あったのかもしれませんが、カラヤンほど叩かれたことはないはずです)では、バーンスタインは作曲家の指定通りの編成で演奏しているのかと思いきや、とんでもない!映像で確認してみると、カラヤンのようにほぼすべてのパートを倍管にはしていないのですが、木管は倍管編成になっているケースが多いんです。「ほぼ全部倍管のカラヤンは作曲家の意図から外れている、しかし、木管のみ倍管は作曲家の意図から外れていな!」ということなのでしょうか?どちらかというと、一部分だけを変えている方がより意図的にいじっていると思ってしまうのは私だけでしょうか?

とは書きましたが、別にバーンスタインの編成を批判したいわけではないんです。バーンスタインバーンスタインなりに、作曲家の意図する響きを作るのには木管を倍管にすることがベストと考えたのでしょう。カラヤンカラヤンでほぼすべてを倍管にすべきと考えた。編成は違えど、目指そうとしたものは同じということです。だから、2人のマエストロの編成はそれでいいと思っています。私が言いたいのは、同じようなことをしても人によって言われ方が変わってしまう。偏見ってよくないということです。恐らく、カラヤンバーンスタインと同じ木管だけ倍管の編成で演奏したとしても文句は言われていたでしょうね。

編成だけでなく、レコーディングでも2人の評価は分かれました。カラヤンはほとんどがスタジオでのセッション、バーンスタインウィーン・フィルとの演奏の多くはライブ録音をとっています。世の中的に「ライブ録音」の方が評価が高い傾向にあります。”本番の臨場感が味わえる。スタジオで継ぎはぎにした人工的な演奏とは違い、生きた演奏。”といった声を聴きますが、「ライブ録音」には2種類あるのをご存知の方はあまり多くないようです。1つ目の「ライブ録音」はその名の通り、コンサートをそのまま収めた録音。これは確かに臨場感があったり、演奏事故も入っていたりと面白いものが多々あります。カラヤンもライブ録音では評価が高いものもいくつかありますね。(このベルリン・フィルとの英雄は有名です。アンチカラヤンの方も絶賛♫)

         

そして2つ目は基本的には演奏会の録音をベースにするものの、よくないところを後で撮り直して繋ぎ合わせたパターン。場合によっては、演奏会ではなく、録音や録画用にお客を会場に入れて、演奏会のようにして収録。楽章ごとに悪い部分を撮り直すこともあるそうです。この2つ目のパターンは「ライブ」といっていいのでしょうか?ベースはライブですが、修正している時点でライブではないですよね。この点をCDのライナーで述べてくれている方がいてちょっと嬉しかったです。本当か確かめようはないのですが、バーンスタインブルックナーの第9番の録音・録画をした際にその演奏に観客としていた方が「楽章が終わると、バーンスタインは指揮台の上に座り、テイクのOKの許可が出るのを待っていた。その時にお客に話しかけていた」といった内容の記事を見かけて、演奏会のライブではないなぁ‥‥と思ったことがありました。その演奏がこれでしょう。もちろん指揮台に座って話している場面はありません。        

               

繋ぎ合わせるのをよしとしないのであれば、2つ目のライブ録音も批判されてしかるべきですが、そうはならない。繋ぎ合わせているカラヤンは批判され、ライブを繋ぎ合わせたバーンスタインはむしろ賞賛される。どうなんでしょうね?

どちらでも結果が素晴らしければいいと思うのですが‥‥。スタジオ録音で素晴らしいものもあります。ライブ録音でひどいものもある。やはり”中立”って音楽においてとても大事なんじゃないかと思うんです。

カラヤンが尊敬する偉大な指揮者であるトスカニーニがこんな言葉を残しています。「音楽を食べるのにナイフもフォークもいりません」

実に奥の深い言葉だと思いませんか?クラシック音楽を聴くのに、そんに肩ひじを張って仰々しく聴く必要はないというメッセージだったそうですが、音楽を聴くのに余計な偏見はいらないということも言ってくれているような気がします。カラヤンが尊敬するトスカニーニがまるでカラヤンを擁護してくれているようにも聴こえてくる言葉だなぁと改めて思いました。